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二代 市川團十郎
不動の申し子(1688〜1758)

 初代が成田不動尊に祈願をこめて、授かった子であるという噂があり、「不動の申し子」ともいわれた。

 元禄10年(1697)5月、中村座で初代が演じた『兵根元曾我<つわものこんげんそが>』での山伏通力坊<やまぶしつうりきぼう>のちに不動明王の分身<ふんじん>の役を演じたのが初舞台(10歳)。

 元禄17年(1704)、父の突然の死に遭う。同年7月、山村座で二代目團十郎を襲名(17歳)。しかし、数年間は役不足に苦しむ。

 後ろ盾となってくれた生島新五郎は、初代中村七三郎の芸を受け継いだ江戸和事の名人であった。その指導を受けたことにより、二代目は豪放な荒事芸ばかりでなく、和事<わごと>、実事<じつごと>・濡れ・やつしなど幅広い芸域を持つことができた。二代目は曽根崎心中の徳兵衛など、近松門左衛門作の世話物の主人公も演じて成功した。

 正徳3年(1713)4月、山村座の『花館愛護桜<はなのやかたあいござくら>』の二番目に助六を初演(26歳)。36年後の寛延2年(1749)、二代目62歳で三度目に演じた舞台によって、ほぼ現行に近い扮装と演出の「助六」劇が完成された。

 正徳4年(1714)絵島生島事件に巻き込まれるが、軽い処分ですむ(27歳)。しかし、恩人の新五郎は遠島となる。

 二代目は、初代から継承した芸を洗練させたほか、『助六』『矢の根』『毛抜』など、のちの歌舞伎十八番に含まれることになる新しい荒事芸も創始、いわゆる家の芸を確立した。それを可能にしたのは、二代目の演技が荒事の骨法を基本にしながら、和事風のやわらか味をも取り入れていく新しいタイプの表現法であったためである。やがて、それが当時の江戸文化の気風と合って、絶大な人気を集めるようになる。隈取りの様式性を完成させたのも彼の功績だった。

 享保6年(1721)には、千両の給金を与えられる「千両役者」となる(34歳)。

 享保20年(1735)養子の升五郎に三代目團十郎を襲名させ、自らは二代目海老蔵となった(48歳)。

 寛保元年(1741)大坂に上る。『毛抜』の粂寺弾正を初演し、実事の芸が上方においても認められる。しかし、その大坂滞在中、三代目の訃報を聞く(54歳)。失意にひるまず大坂の舞台を勤め、翌年の9月に江戸に帰る(55歳)。

 宝暦4年(1754)11月、二代目松本幸四郎(44歳)を養子に迎え、四代目團十郎を襲名させる(67歳)。

 初代同様、俳諧を能くする文化人でもあった。

 江戸の町人社会において「市川團十郎」が別格の役者として尊敬されることになる基礎を固めた。

 宝暦8年(1758)9月24日没(71歳)。

テキスト:服部幸雄著『市川團十郎代々』(講談社刊)より
錦絵:早稲田大学演劇博物館蔵 作品番号201-0503