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初代 市川團十郎
荒事の創始者(1660〜1704)

 初代の父親は、顔役で人望厚く「面疵<つらきず>の重蔵」などとあだ名され、有名な侠客<きょうかく>唐犬<とうけん>十右衛門とも親交があった。初代團十郎の幼名海老蔵<えびぞう>の命名者は、その十右衛門だという伝説がある。

 延宝8年(1680)上演の『遊女論』の不破伴左衛門役が史料への初出(21歳)。

 貞享2年(1685)市村座における『金平六条通<きんぴらろくじょうがよい>』の坂田金平役が荒事の創始とする説が有力である(26歳)。当時江戸で人気を集めていた人形芝居の金平浄瑠璃<きんぴらじょうるり>からヒントを得たと伝えられる。金平浄瑠璃の内容は、坂田金時の子金平が超人的な怪力を発揮して、頼光<らいこう>四天王の子どもたちとともに鬼神・妖怪や悪人どもを退治する有様を描き、人形が岩を割る、首を引き抜くなどの荒っぽい演出だったという。江戸歌舞伎の中では、團十郎以前から荒々しい武者が立ち回りをする「荒武者事<あらむしゃごと>」と呼ぶ演技類型(パターン)が形成されていて、敵役系統のものと奴系統のものがあったが、團十郎はそれらを統合し、敵役をやっつける正義の味方として演じる新しい荒武者事を創始した。それが「荒事」である。主人公が大切<おおぎり>(一日の狂言の最後)に荒(現)人神<あらひとがみ>の分身<ふんじん>となって立ち現れる、いわゆる「神霊事<しんれいごと>」の演出を伴っていたことが、従来の単なる「荒いこと」と團十郎の「荒事」とを分ける決定的な違いだった。

 元禄6年(1693)の暮れ、両親妻子を伴って京へ上るが、当時の京都人の気風に合わなかったために評判はあまりかんばしくなかった(34歳)。在京期間は約一年。

 上京を機に上方の俳人、椎本才麿<しいのもとさいまろ>に入門、俳名を才牛<さいぎゅう>とする。

 学問・文芸に才能があり、狂言作者としても活躍。「三升屋兵庫<みますやひょうご>」というペンネームを使ったこともある。多くの荒事を自身で作ることにより「團十郎の荒事」の独特な性格が固まっていった。

 元禄17年(1704)2月19日、市村座の『わたまし十二段』に佐藤忠信の役で出演中、役者の生島半六に舞台で刺し殺された。原因は不明(45歳)。

テキスト:服部幸雄著『市川團十郎代々』(講談社刊)より
錦絵:早稲田大学演劇博物館蔵 作品番号201-0502