五代目の子であるが、門弟の市川升蔵が引き取り、いったん五代目の従弟にあたる芝居茶屋の和泉屋勘十郎の養子になるが、天明2年(1781)4歳の時、改めて五代目の養子になる。
天明3年(1782)正月、中村座の『七種粧曽我<ななくさよそおいそが>』の座頭徳都<ざとうとくのいち>役で徳蔵の名で初舞台(5歳)。
同年11月、中村座で四代目海老蔵を襲名。
寛政3年(1791)11月、市村座顔見世で六代目團十郎を襲名(14歳)。
寛政8年(1796)に五代目が引退したため、19歳の青年團十郎にかけられる期待はいよいよ大きく、責任も重かった。
若くて花のある美男役者だったらしく、楽屋口で出待ちをする娘たちがいたという。また、似顔絵からみると鼻筋の通った高い鼻と眉毛の形に特徴があり、父の五代目譲りの愛嬌のある風貌だったと想像される。
寛政11年(1799)3月、初めて家の芸の助六を演じ大当たりをとったが、翌月風邪のために休演、「こはいかに折れし三升<みます>の菖蒲太刀<しょうぶたち>」という句を残し、そのまま帰らぬ人となる。
寛政11年(1799)5月13日没(22歳)。