彼の活躍した安永(1772〜81)・天明(1781〜89)から寛政(1789〜1801)の時期は、江戸歌舞伎はまさに開花期であり、演技者としての実力が高く評価される時代であった。
宝暦4年(1754)正月、松本幸蔵の名で初舞台(14歳)。
同年11月父松本幸四郎が、四代目團十郎を襲名したため、その名跡を継ぎ三代目松本幸四郎となった。
明和7年(1770)11月、五代目團十郎を襲名(30歳)。父四代目は旧名幸四郎に戻る。
五代目は、その容貌・体格ともに父の四代目とよく似ていた。芸風も父に似て、幸四郎時代には景清など実悪系統の役を得意にし、認められていた。團十郎襲名後は、意識的に実事に精進、『仮名手本忠臣蔵<かなでほんちゅうしんぐら>』の由良之助<ゆらのすけ>を團十郎として初めて演じたのも五代目だった。また、これまでの團十郎が演じなかった純粋な女形の役も勤めたり、道化、侠客など芸域を広げ、さらに、その頃出てきた新演出法の早変わりで何役も一人で演じることができた。
寛政3年(1791)11月、息子の海老蔵に六代目團十郎を襲名させ、自分は鰕蔵<えびぞう>と改名した(51歳)。鰕は天鰕<ざこえび>の意味で、"祖父や父親の海老には及びません"という遜<へりくだ>った気持ちを表す文字であった。
晩年は病気がちとなり、寛政8年(1796)11月、都座で一世一代の興行を行って引退、本所牛島の反古庵<ほごあん>に隠居して、成田屋七左衛門と称する。世俗を超えた風雅の生活に入り、多くの文人と交流した(56歳)。特に『歌舞妓年代記』の編者として有名な烏亭焉馬<うていえんば>とは義兄弟の契りを結ぶ仲だった。
文化3年(1806)10月30日、前日より催されていた句会半ばに没(66歳)。