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八代 市川團十郎
美貌の人気役者(1823〜1854)

 文政6年(1823)生後1ヶ月余りで、新之助の名で市村座の顔見世に碓氷貞光一子荒童丸<うすいさだみついっしあらどうまる>の役で舞台に出る。

 文政8年(1825)10月、生まれた弟に新之助の名を譲り、自身は六代目海老蔵を襲名(3歳)。

 天保3年(1832)3月、市村座で八代目團十郎を襲名(10歳)。

 この時代、天保の改革の一環としての弾圧が始まり、江戸の興行界は危機的な時期を迎えた。江戸三座は強制的に浅草の猿若町へ移転させられたのである。都心を離れた所へ移され、当初は客足も減ってしまったが、あまり時を経ずして以前にも増す賑わいを取り戻したが、その原動力には八代目の人気が大きかった。

 八代目は面長で非常な美男子であった。代々の團十郎とは違った型の風姿を備えていた。粋で、上品で、色気があり、それでいていや味がなく、澄ましていても愛嬌があった。音声は甲走<かんばし>って高く、さわやかで朗々とした名調子だったという。

 また、親孝行でも知られ、父の七代目が追放された時、毎朝精進茶断ちをして、蔵前の成田不動の旅所に日参し、父の無事と赦免を祈った。これを理由に町奉行から表彰され、銭十貫文を貰ったという。

 当時、八代目が助六の舞台で「水入り」に使った天水桶<てんすいおけ>の水で、白粉<おしろい>を溶かすと美貌になれるという噂があり、一徳利一分で飛ぶように売れたという。また、八代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と表書きして、御殿女中たちが錦の守り袋に入れ、肌守りにしていたとの伝説もあった。

 嘉永7年6月、大坂にいた父海老蔵を訪ねようと江戸を発つ。途中の名古屋で興行中の父と合流し、舞台に出演。7月28日には、父と道頓堀中の芝居へ船乗り込みをした。そして、大坂での初日を迎えた8月6日の朝、島の内御前町の旅館植久の一室で自殺してしまった(32歳)。原因は不明。

 美貌で生涯独身を通した八代目の人気は死後も衰えず、300種を超える膨大な死絵<しにえ>が出版された。

テキスト:服部幸雄著『市川團十郎代々』(講談社刊)より
錦絵 :早稲田大学演劇博物館蔵 作品番号100-2393